”日本人”という病。

思考回路


今から7年ほど前。
当時は南米に住んでいましたが、
子供たちの春休みに合わせて一時帰国をしていた時の話。

一時的に滞在する”日本”という国は
それはもう、魅力的。

何かのしがらみもないし、役割もない。
派手に買い物をして、美味しいものを食べて、
旅行者と同じような気分でただ、楽しめば良いのだから。

子ども達は、今でも
「一時帰国の日本が一番楽しかった」
と言うほど・・・。

10日程の滞在の間は
やる(やりたい)ことがとにかく多い。

時間を節約するために、
事前にネット注文していた複数の荷物は、
同じ日時に届くように指定していた。
日本の宅配便は遅れてくる事は滅多にないし、
時間まで細かく指定できるのは本当にありがたい。

しかし、その時は指定時間過ぎても荷物が
届かなくて、次の予定もあり、焦っていた。

と言っても、たかだか2,30分の遅れ・・・

海外での時間の概念というのは、
見聞きしたことある方も多いと思うけれど、
本当に、アバウト。

家とか、電化製品とかの修理屋さんとの約束だと

「○月○日に行きます。」

位なもので、午前か午後か分かればありがたい方。
時間指定してたとしても、その時間に現れる事は
ほぼ、ない。
それどころか、一日中家で待機しても、
何の連絡もなく、来ない事も珍しくない。

海外ではそれが当たり前であり、
イチイチ腹を立てたり、苦情を言ったりも
しなかったのだ。

私は語学も出来なかったし、
ひたすら言われた日に待機しておくしか
能が無かった・・・だけなのだが。

それなのに、ほんの数日、帰って来ただけで、
日本人の時間感覚を急に持ち出して、
2,30分の遅れでイラついてる自分に
気が付いた時、ちょっとショックを受けた。

当時住んでいた国で、30分遅れなんて、
遅れたうちに入らない、人によっては、
早すぎると言う感覚なのだから。

この自分の感情を深堀すると、
私は、恐ろしくなった。

この感覚が当たり前という事は、

自分にも、当たり前に求められてる事がある。

のである。

母親として、当たり前。
妻として、当たり前。
娘として、当たり前。
保護者として、当たり前。
住民として、当たり前。

子供が事件や事故に巻き込まれれば、
”母親は何やってたんだ!?”
(なぜか、絶対に母親)

そうやって誰かを責めている誰かも、
いつ責められる側になってもおかしくない。
紙一重なのだ。

いつ、いかなる時も、
どこに居ても、その場、その時の

”当たり前”があって、
いつだって”責任”を問われる。

日本にいると、何だか疲れるはずだ。

誰かに、それを求めるのをやめてくれ、
意識を変えてくれ、っていうのは、難しい。

人を変えるって、不可能に近い。

そうすると、やっぱり、

誰かに対して求めてしまっている
自分の意識を変えるしかない。

こっちは寛容になろうとしてる時に、
何も知らない相手は私に”当たり前”を
求めてくるだろう。

耐えられると思えない・・・

今、海外からの旅行者で溢れている日本。
彼らは、一時的な滞在で、何のしがらみもない。

人に対して、当たり前を要求しないからこそ、
日本人のホスピタリティーとかサービスが
心に残るのだろう。

でも、日本に住んで、
当たり前にそれを求められたら、
けっこう辛いと思うんだけどな。

自分さえ我慢すればいい、
本当は人の役に立ちたい、
できるだけ迷惑をかけたくない、
でも本当は全てがどうでもいい。

そうやって、最終的に

出来るだけ人と関わらない選択

に至ってしまう。

もしかしたら、
この感覚は、日本人しか罹らない、

”日本人という病”

なのかもしれない。

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