普段生活していて、
”宗教”について、考えることってない。
自分自身は熱心に信仰している訳ではないが、
お葬式は、仏式で執り行ったし、
実家には、仏壇もある。
どこかしらの団体に属して、
教祖的な人やモノを崇拝したり、
お祈りを捧げるようなことをする気はないけど、
宗教の教え自体には、よく引用されるような
いい言葉も沢山あるし、
信仰してる人にも、少しだけ興味もある。
いつも穏やかで朗らかで落ち着いている。
悲しい事があっても、ストンと受け入れてしまう、
(本人は葛藤してるとは思うけど)
人の事を絶対に悪く言わない。
そういう人に時々出会ったけれど、
かなりの確率で、何かしらの宗教を信仰していた。
その度、
”あぁ、やっぱり”
と思うのだ。
”信じる人は救われる” というけど、
どんなに闇が深くても、何かを信じている人は、
きっと心が救われているのだなぁ、と思う。
それが、いい事とも思わないし、
かと言って、悪い事とも思わない。
その人にとっては、いい事だし、
私にとってはどちらでもないことなだけで。
私は、身近にそういう友達はいないけれど、
3~4年ほど前から某宗教の方が尋ねてくるようになった。
最初は、全く話を聞く気もなくて、
「帰って下さい、結構です。」
てな臨戦態勢だったけど、いかんせん、
無下に断るのが苦手な私は、なあなあに
対応を続けてしまい、その女性と顔見知りのような関係に
なってしまった。
宗教の話はほとんどしなくて、
庭の花の話とか、家庭菜園の話とか、
ただの雑談をしていた。
その奇妙な付き合いは4年以上経っていた。
正直、実際、断るのは難しい事ではないし、
居留守みたいな事をしたこともあった。
気が合うとも少し違うのだけど、
”宗教”というフィルタ抜きで
その女性の人柄を何とか知る事ができないかと
考えていたのかもしれない。
要するに、私が少し興味を持っていた、
何かを信仰している、身近な人だったのだ。
この数年、誘われるようなことは無かったし、
話すことも別に苦痛ではなかったけど、
自分の気が済んだのか何なのか分からないけど、
「もう、ちゃんとお断りしよう。
宗教に興味ないのに、毎回時間を使わせるのも
申し訳ないな」
と思うようになった。
ある日。
いつものように大量のクッキーを焼き、
ラッピングしていた。
ふと、
「もしあの女性が来たら、このクッキーを
一袋差し上げて、もう来ないで下さいって言おう。」
そんな考えが頭をよぎった。
いつ来るかなんて分からないのに。
数分後、ピンポーン。
なんと、その女性が尋ねて来た。
(さすがにちょっと鳥肌。)
私は、丁寧に自分の考えを伝えて、
もう今日でお会いするのは最後にします。
とクッキーを差し出した。
世の中的に、
興味もない宗教の勧誘をする人に、
そんな中途半端な対応をしている事は、
多分、かなり危ういことなんだろうと思う。
10年以上前、
友達とユダヤ教関連の建築物を見学に行った。
ユダヤ人が宗教信仰に使用した品々が
陳列してあった。
それらのほとんどは、
迫害を受けて没収されたもの。
豪華で華美なもの、
肌身離さず持っていたようなもの、
まるで、自分の命より大事だったのか?
と思わされる品々・・・
「宗教のチカラってすごいね」
友達が思わず呟いた。
これ以上ないくらい実感がこもっていて、
この言葉が、今も頭の片隅にずっとある。
海外で、大きくて立派な教会を見たり、
日本でも、立派なお寺や神社を見る度、
この言葉を思い出す。
本当に、宗教のチカラはすごい。
古い建築物を見るたびに、その時代に、
この大きな木を、大きな岩を、
高い塔を、どうやって?
と思わずにはいられない。
古い建築物で今も大切にされている多くは、
宗教がらみのものが多い。
すごく大きな力をもつもの。
『自然』が織りなす、様々な景色、災害、恩恵、
その次に、『宗教』はあると思う。
分断と争いを繰り返すのは、
宗教を利用している人がいるからだよな。
色々な宗教があるから、一概には言えないけど。
私は、あの女性と、違う出会い方をしていたら、
違う関係を築いていたかもしれない。
と少しだけ思う。
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