遺影写真。

思考回路

ここ数年で、写真現像をする小売店を
めっきり見なくなりました。

時代遅れの自分ですら、
現像なんてもう随分していないから、
仕方ないのかもしれない。

私は、まだフイルムを使うタイプの一眼レフを
所有しているけれど、納戸で埃をかぶっている。
今は、フイルムお幾らくらいするのだろう・・・?

先日、たまたま見かけた写真ショップの

「遺影写真」

というのぼりに、ちょっとした衝撃を受けた。


最後のお別れで、みんなにしょうもない写真を
晒されるのは、確かに耐え難いかも・・・。
いや、もう居ないから、耐えるも何もないけれど。

ちょっと考えを巡らせてみても、
例えば、身近な人が急に亡くなった場合、
悲しいは、やることが沢山あるわで、
いい写真を選ぶ余裕なんてないかもしれない。

葬儀場を事前に予約するだとか、
自分でプロデュースするだとか、
生前葬儀だとか、色々あるんだから、
遺影写真も、今は普通の事なのだろうか?


春頃に、実家で探し物をしていて、
金庫を開けたら、

「もしもの時に使ってください」

と書いた白い封筒に母、ふくちゃんの
遺影用の写真が入っているのを見つけて、
びっくりした。

おそらく、認知症になる前、
近くにオープンした葬祭ホールの見学会で
撮影してもらったようだ。

ちょっとびっくりはしたのだけど、
この写真がある事に気が付いて良かった。

とりあえず、”もしもの時”、写真はすぐに
決める事ができるのだ。

こういう事に限らず、
本人の意思が確認できるものは、
出来るだけ沢山の手がかりがある方が、
残される家族は本当に困らない。


最近はまっている

「なみだ坂診療所」

という医療系マンガを読んでいると、
最後が大変だとつくづく思う。

”もしもの時” の話って、
どうしても 

縁起でもない

と、敬遠してしまう。
絶対に誰にでも来るのにね。

遺影写真も、”撮っておくと死なない”なんて
ジンクスでも広まれば浸透するかもねー。


私が小学生の時、
肺がんで入院していたおじいちゃんが亡くなった。
ふくちゃんは、いよいよ自分の父親の延命を
するかしないかの決断を迫られた時、

「一切何もしないで下さい」

と医者に伝えたという。

何か施して、まだ命が繋がるなら、
何でもいいからお願いします!
ってな時代だったと思うが。

痛がって辛そうな父親を見ていて、
全く迷いは無かったと。

その話を聞いた時、ふくちゃんをちょっと見直した。


もしも、自分が癌になったら?

という事を、時々考える。
普通にあり得ることだしね。


もう、運命だと諦めて放置して出来るだけ
好きな事をやりつくす、短くて太い人生も
悪くないかも知れない、とか常々思っている。

長生きして認知症になる事を想像すると、
少々早すぎる位が潔くて、丁度いい。。。

な~んて言ってる人に限って、

そっこーで治療して、
何だかんだ、周りに迷惑をかけながら、
生き延びるってパターンが濃厚だよね・・・

で、遺影写真はどうするかって?
取り敢えず、撮影する予定はないかな。

「もっとマシな写真なかったんかぃ!!!」

って、葬儀場でウロウロしながら、
家族に無言の突っ込みを入れるのも悪くない。

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