大人になる、と言うこと。

otona思考回路

大人になる。

結婚した時も、子供を産んだ時も、
年齢だけは大人だけど、自分がイメージしていた
ちゃんとした大人になったとは思わなかった。

自分が大人になったな、と実感したのは、
割と最近のことだ。

認知症の母、ふくちゃんがあちこち迷惑をかけて、
色々なところで、頭を下げていた。

親の為に頭を下げるなんて、
わたし、大人になったなぁ、とふと思った。

素敵な大人。

大人になる

の定義は、
「なぜ、生きるのか?」
くらい、一人ひとり違う。

私なんて、ブレブレな人生なので、
その時、その時でも違っている。

実を言うと、
今も素敵な大人に憧れている。

ある友達が言った一言がとても印象に残っている。

「子供には、出来るだけ多く、
 素敵な大人に出会って欲しい」

子供に素敵な大人になる事を望む前に、
親自身がちゃんとした大人であろうという、
愛を感じた言葉だった。

確かにね、
素敵な大人に出会った子供は、
きっと、大人になるのが楽しみになるだろうな。

そこでふと考えてみる。

私と出会ったよその子供にとって、
私は、素敵な大人であっただろうか・・・?

うー・・・・
普通のおばちゃんレベルかな(笑)

一度だけ、小学1年生の女の子に、
”chocofumiみたいになりたい”
と言われた事があったけど、
すんごく嬉しかったな。

見てる、見てない。

誰かが見てるか、見てないか。

それによって行動を変えてしまう事がある。

見られてたらちゃんとする。
見られてなかったら、まぁいっか。

恥ずかしながら、今もそういう事がある
私です・・・
素敵な大人なんて、程遠い。

長女が中学生の時の話。

トイレ掃除の担当だった長女は、
トイレのスリッパを一つ一つ丁寧に
雑巾を手に拭いていたらしいのだけど、
ある男の先生がたまたまそれを見かけて、
褒めてくれたそう。

誰かに褒められたくてした訳ではなく、
当たり前にしていた事が嬉しかったのだけど、

それを見つけて褒めてくれる大人がいた。

という事実が長女にとって、
とてもいい経験になったと思うし、
その先生に私も感謝している。

・・・・ってつい最近その話をしたら、
すっかり忘れていたけれど。

誰かが見ていても、見ていなくても、
やる/やらない

って、簡単そうだけど簡単じゃない。

この先生みたいに、
誰かの良い行いに気が付ける人も、
素敵な大人だなー。って思う。

色んな人がいる。

20代前半頃だったと思う。
親戚のおばさんに、

『大人になるってことはね、
 世の中には色んな人がいるんだって、
 心から分かる事なんだよ』

と言われたことがあるのだけど、
ものすごく実感がこもっていて、
ずっと印象に残っていた。


10年ほど前に叔父さんに先立たれたのだけど、
叔父さんから叔母さんへの最後の言葉が

「お前は本当にバカだ!」

だったらしい。

ネタかと思ったのだけど、
叔母さんの義両親へのひどい扱いとか、
激しい損得勘定とか、
自己中心的なところがある人だったからなー
納得。

完全に尻に敷かれていた叔父さんは、
死ぬ直前に叔母さんに本音を言えたのです・・・

世の中には色んな人がいる。

それを身をもってくれた叔父さん&叔母さんに
感謝している。

まだ、目指そう。

で、これからどんな大人を目指そうか・・・

イイ歳の大人が、どんな大人になろうか?
なんて、何言ってんだ~なんだけども、

多分一生

自分が素敵な大人になれた!

なんて思う瞬間はないんだろうな。

でも、それで良いのかもしれない。

ちなみに・・・旦那さんに
「大人の定義って何だと思う?」

って聞いてみたところ、
「自立」だと言う。

経済的?精神的?と聞いたら、

「なんでも自分で決められる事」

「パスワードとか暗証番号とか、
 ちゃんと自分で管理できる人」
(→ほぼ旦那をあてにしている)

と、痛い一撃を喰らったchocofumiなのでした。

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